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延暦寺根本中堂。最澄が788年(延暦7年)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まり。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂と呼ばれています。
平安時代に最澄と空海の仏教が栄え、平安時代末期から鎌倉時代に法然、栄西、日蓮、親鸞が続く流れを振り返るのも面白いです。
現在、地元の京都新聞に五木寛之氏の連載小説「親鸞 完結篇」が掲載されていますが、仏教が歩んできた歴史の流れを踏まえ、比叡山から京の都の下界を見下ろすと、今の俗世の時代が不思議と理解できます。
自然の中にある比叡山、法然の「草木・国土・悉皆成仏」「一切衆生・悉有仏性」と自然に囲まれ生きる日本人の美学を取り戻す胎動が見えるような気がします。
昨年の東日本大震災、そして昨今の痛ましい交通事故、また、JR西日本(平成17年4月25日)の事故から7年等々。いつの時代も事故や災害により、多くの犠牲者がでる世の中。その都度、原因は一応究明されるも、抜本的な対策が後手に回り、教訓として生かされない社会。残念ながら、我が日本も未だ貧しい社会かもしれません。
諸行無常が今の世も続いています。唯一救われるのは、仏の世界でしょうか。この時点でも、京都の鬼門である北東の山の上から心静かに祈りが唱えられています。合掌
延暦寺。天台宗の総本山。奈良時代末期、最澄 (767〜822年)が19歳の時に比叡山に登り、草庵を開いたのが始まり。その後、32歳の時に平安京の鬼門鎮護のために一乗止観院、後の延暦寺根本中堂を創建。以後1200年間、一応、「不滅の法灯」を護り続けています。比叡山で修行した僧の中には、法然、親鸞、道元、日蓮、一遍など高僧を輩出し、お坊さまの修行山として確固たる地位を築いてきました。
平安時代末期には、3000坊を数えていたと云われ、山法師(僧兵)の兵力も加え、その勢力を増していった末、元亀2年(1571年)に信長の一山焼き討ちに遭い、壊滅的な被害を被りました。今から約440年前のことです。
「不滅の法灯」も、この戦で一時絶えたことは確かでしょう。現在の灯は、山形・山寺(宝珠山立石寺)に分灯されていた火を引き継いだものだそうです。
その法灯ですが、蝋燭ではなく、菜種油を燃料に芯を燃やす方式で、油は気がついた僧侶が注ぐ仕組みとのこと。時間を決めて油を注いだりはしていないそうです。まさに、これこそが「油断大敵」、大人の仕組みかもしれません。欧米式のマニアル方式を超越しています。
でも、ここからは想像の域です。法灯が3つあるということが味噌かもしれません。ひょっとすると、法灯の一つぐらい、うっかりと消してしまったこともある?そんな場面に遭遇したら、さぞかし肝を潰してしまうことでしょうね。不謹慎失礼。比叡山は東山三十六峰の頂点。
延暦寺は比叡山の山上にある根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川(よかわ)の3地区 と、比叡山山下にある延暦寺の鎮守社であった日吉大社や本坊であった滋賀院などがある坂本地区に大別されます。
この時点でも、京都(御所から見て)の鬼門である北東の山の上から心静かに祈りが唱えられていることでしょう。合掌