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三十三間堂。正式名は蓮華王院。本堂の名前が三十三間堂です。この本堂には1001体の千手観音像を祀っています。当初の堂は1249年焼失、1266年に再建されました。三十三間堂の名は、御堂内陣正面の柱間の数に由来し、また三十三という数は観音菩薩が「観音の三十三応化身」の変化数にあやかっています。南北118mという横長な建物で『通し矢』でも有名です。中央に安置される中尊とその左右に500体ずつの計1001体の十一面千手観音像が立ち並んでいます。
これらすべてが本尊であると云われています。たいへん徳のあるお寺です。
白峯神宮。この社地は蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地で、摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神のため、現在ではサッカーのほか、球技全般の守護神とされています。
サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などからボールなどが奉納されています。高校生も多く参拝する神社です。
また、境内の井戸水も有名です。清少納言が「枕草子」で「飛鳥井 みもひも寒し とほめたるこそをかしけれ」と述べている名水。神社が建つ前ここには羽林の飛鳥井家の屋敷があり、その屋敷内に「飛鳥井」と名付けた清泉が湧き出ていたそうです。
この神社の界隈・西陣を散策すると、新たな発見のある地域です。桜の隠れスポットもありますよ。
銀閣寺。正式名称を慈照寺(じしょうじ)といいます。創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政で祖父である足利義満が建てた北山山荘(金閣寺)を参考に、東山文化の代表東山山荘を造営しました。金閣寺と同様、お坊さんがいない名ばかりお寺が起源のお寺です。
東山山荘の楼閣建物を「銀閣」と呼ぶことから、寺院全体が銀閣寺と称されています。銀閣寺を象徴する建物が銀閣と呼ばれる観音殿で、さらに、方丈の前庭にある白砂の砂盛り向月台と、波紋を表現した銀沙灘も見所の一つです。
銀閣の前にある錦鏡池を中心に池泉回遊式庭園が広がっています。
興福寺。法相宗の大本山。藤原氏の氏寺として藤原氏の隆盛とともに寺勢を拡大し、奈良時代には南都4大寺、平安時代には南都7大寺の一つとして栄え、以後鎌倉時代には大和守護職を勤めるまでに発展しました。
しかし、戦国時代に入ってから徐々にその勢いは衰え、1717年には北円堂、東金堂、食堂(じきどう)以外の伽藍を消失。それ以後は、徐々に現在の伽藍に復興されました。
ここにある五重塔は天平二年〈730年)、光明皇后の祈願により創建、たびたびの火災にあいましたが、現在の塔は応永三十三年(1426年)再建の六代目の塔です。総高50.1mで、京都の東寺の五重塔(高さ54.8m)に次いで二番目の高さです。姿かたちも非常に美しいものです。
フェンスで守まれているところが、奈良らしくていいです。
これから春にかけのぼる若草山の新緑も楽しみです。
退蔵院。花園にある臨済宗大本山妙心寺の塔頭。南の門から入って、三門の左横にあるお寺です。
初期水墨画の代表作である国宝・瓢鮎図(ひょうねんず)を所蔵していたことでも有名。瓢鮎図は室町水墨画の先駆者・如拙の作で、日本の初期水墨画の代表作の一つ。画面上部の序文により、室町幕府4代将軍足利義持の命で制作されたことがわかります。
表面がつるつるの瓢箪でぬるぬるしたなまず(「鮎」は「なまず」の古字)を捕まえるにはどうすればよいかという、およそ不可能な問いかけを図示したものです。禅の公案を絵画化したものです。原作は京都国立博物館に寄託され、方丈の横に飾られている絵は、模写となっています。
なお、ここの若い副住職は、京都の観光大使としても頑張っています。先日も、妙心寺の管長の付き人として、ローマ法王に謁見したとのことで名誉あることですね。
お彼岸で多くの参拝者で賑わっていたお庭の梅も満開をやっと過ぎました。見事な枝垂れの桜が楽しみですが、まだ、蕾みも膨らんでいませんので、開花は未だ先の4月に入ってからでしょう。お食事をしながら、夜桜も見物できます。そういえば、先ほどご紹介した瓢鮎図をイラスト化したお饅頭も販売されています。甘みを抑えた上品な和菓子で抹茶受けにも出されています。