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妙心寺塔頭、寿聖院。慶長14年、石田三成の父・正継によって建立。慶長5(1600)年の関ヶ原の敗戦までは、現在の北門の一角を担う広い敷地を誇るお寺でした。在の正門は、創建当時医薬門(勝手口)として使われていた門です。
三成の嫡男・重家は、佐和山落城の際に祖父正継より一族の菩提を弔うため生き延びる事を命ぜられ、正継が建立した妙心寺寿聖院に入りました。宗亨(そうきょう)という名で出家し、40才の時に寿聖院三世を継承。この住職は104歳で天寿を全うしたそうです。書院には、石田三成公の父正継、母瑞岳院、三成公自身、三成公の長男済院宗享の肖像画のレプリカが飾ってあります。本物は大阪美術館所蔵。
境内には石田一族のお墓もあります。三成公の墓には、毛髪が納められているとのこと。納骨は大徳寺三玄院です。なお、「寿聖院」は父、石田正継の戒名です。
今回は、京都造形芸術大学院を卒業した村林由貴氏が取り組んでいる襖絵を見学してきました。襖に思い存分、大きな墨絵が描かれていました。なお、寿聖院は普段は非公開のお寺です。
この襖絵の取り組みは、今後は、退蔵院本堂で取り組むそうです。なお、退蔵院は来年の春、秋のJR東日本の目玉商品になります。ご期待ください。ちなみに、寿聖院の住職は退蔵院の副住職の弟さんだそうです。父は退蔵院の住職です。政治と同じで世襲のお寺もいささか、疑問ではあります。まぁ、資質が伴えば、構わないでしょう。
名勝嵐山にあり竹トネンルの道にある竹垣の整備が行われていました。外国人の方もその技を習得するため、熱心に作業に従事していたようです。
京都の竹垣といえば、京の町屋にある犬矢来(いぬやらい)、家の外壁の裾を雨水の跳ね返りなどから防ぐ目的の垣根や光悦寺の『光悦垣』が有名ですが、最近で祇園祭の際、封鎖道路を突破する車両を防ぐための鉄のフェンスを隠す竹で作った柵も登場しています。
自然にも優しい竹をもっと京の暮らしに役立て見たいものです。
ところで嵐山には、周恩来が日本留学時に京都の嵐山で失意のうちに作った「雨中嵐山」の詩を刻んだ石碑があります。日中友好のシンボルで、中国要人が関西を訪問した際もここを訪づれます。碑文は当時の中日友好協会会長が、日中友好条約締結時の1978年に揮毫したもの。でも、両国間で何か起きるとこの石碑に赤ペンキがかけられた愚かな出来事が発生しています。
中国政府や中国人民の暴力的な行動・言動はけっして正当化できるものではありません。しかし、隣国、出来れば過去の歴史を繰り返さないためにも一定の距離を保ちつつ、継続的な交流は図りたいものです。経済至上主義やにわか愛国心ではなく、文化や伝統を通じた心の交流が一番重要かもしれません。
たぶん、まだ竹の文化が残る中国と日本の交流に期待したい。